任天堂に関連した貴重な写真が1枚公開されています。
今回は、創業当時の社屋の写真が明らかになっています。
任天堂、創業当時の社屋の写真
任天堂の創業当時の社屋の写真は、「明治150年京都のキセキ」という企画に関連して公開されています。
「明治150年京都のキセキ」は、2018年は明治で言えば150年という節目になることを記念し、京都市が企画しているものです。
今では世界有数の先進国家となった日本も、大政奉還後の明治の人たちの頑張りで築かれている部分も大きく、京都市は、そのような明治の先人たちの行いを振り返り、その誇りを皆で共有するために、今回の企画を行っているそうです。
そして、そのような明治&京都の人の行いの中に、ゲーム業界に関連する大きな出来事が存在します。
それが、明治22年(1889年)に創業された「任天堂」です。
任天堂は、創業当時は「任天堂」という社名ではなく、「山内任天堂」という社名でした。
これは山内家が作ったものだから、こういう名前になっているようです。
また、創業当時は当然ながらビデオゲームなどはなく、「かるた製造元」が事業内容です。
ちなみに、「かるた」と言えば、現在はお正月などに遊ぶ「かるた」をイメージすると思いますが、元々は花札やトランプなどのカードゲームを意味する言葉であり、任天堂は、現在も続く「花札製造」業者としてスタートしています。
この花札製造業者としてスタートしたときの社屋が、上の画像のようなものになっています。
昔の日本語表記は、右から左へと読む仕様なので、現代人が見ると読みにくいですが、看板に、「かるた製造元」、「山内任天堂」という文字が確認出来ると思います。
また、看板の手前には、花札デザインのオブジェが飾られていることも分かります。
さらに、当時から輸出を行っていたような感じもあり、明治時代だと珍しいような気もする、英語での表記もあります。
その他、何気に自転車らしきものも映っていますが、明治22年の頃の自転車は、わりと貴重品だったはずです。
なお、この建物自体も立派な感じなので、かるた製造元の山内任天堂は、小さな部屋の1室からスタートしたというような歴史ではなかったようです。
ちなみに、この「かるた製造元」の「山内任天堂」は、更に元をたどれば、石灰問屋を経営していた山内家の新事業のようなものとしてスタートしているという歴史があります。
よって、山内家のビジネスの歴史は、任天堂創業よりも前から続いています。
コメント
来年で創業130年か。すごいな。
任天堂のペーパークラフトの歴史もみたいな〜。